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クラゲ

触手が数本、千切れた。 痛みはなかった。ただ、泳げなくなった。私は深海へ沈んでいった。 暗い。暗いのに、身体の輪郭はどこまでも広がっていく気がした。水と皮膚の境界が溶けて、自分が深海の一部になっていくような。あるいは自分自身が深海であるような。 なのに、思考だけがくっきりと残っていた。 考えが、ぐるぐると回った。小さく、個人的な考えが。誰も知らない、誰にも届かない考えが。身体はどこまでも広がっているのに、思考だけがここに残っている。世界に取り残された思考だけが。 苦しかった。 もう、終わりにしたいと思ったとき、大きな口が現れた。 一瞬だった。 暗闇の中に、もっと深い暗闇が開いて、自分はその中に収まった。輪郭も、思考も、全部まとめて。 ああ、と思った。 ようやく、終わったと思った。

地球の肌

僕らは地球の声が聞きたかった。 ある人は地面に耳をつけた。ある人は岩に耳をつけた。またある人は、アスファルトの割れ目に耳をつけた。 皆、感じた。地球の「肌」は、思いのほかひんやりしていた。 もう死んでいるのかもしれなかった。 それでも耳を澄ませて聞こうとした。 もはや誰も自動車のような音の鳴るものには乗らなかった。地球に静寂が戻った。 やがて、波のような音が微かに聞こえた。 聞こえた……聞こえた? 聞こえた。 人々は静かに喜んだ。だが声には出さず、ひたすら地球に耳を当て続けた。 やがて人々は、地球の肌になった。 地面や岩肌、アスファルトの割れ目に片耳をつけたままの、人型の鉱物が遺された。 何千年も経って、鉱物の空に向いた耳の穴から水が湧き始めた。 水はそこら中から溢れ出し、地球は再び水の惑星になった。 誰もいない地球に、静かな波の音だけが響いている。

エリザベスの部屋

エリザベスは窓から外を眺めた。今日は曇りで、宮殿を出入りする人影もまばらだった。 やがてカーテンを引き、ランプに火を灯す。オレンジ色の光が、卓上の緑の食器を鈍く照らした。 それは昨日、東の使者が献上したものだった。 丸みを帯びたその皿に、エリザベスはときおり息を吹きかけ、布で丁寧に磨く。そうしていると、不思議と心が落ち着いた。 足音が近づく。誰かが部屋へ来る。 エリザベスは咄嗟にベッドへ潜り込んだ。 「お嬢様、ご気分はいかがですか」 細長い顔の大臣が、静かに部屋へ入ってきた。 「ええ、問題ないわ」 「昨日も倒れられたと聞いておりますが」 「もう良くなったの。この通り」 エリザベスは笑みを作ってみせた。 「素敵な笑顔でいらっしゃいます。……ですが、顔色が優れません」 大臣は穏やかに言葉を継ぐ。 「そろそろ医者にかかられる頃合いかと」 エリザベスの表情が曇る。 「また瀉血するの?」 「それは医師の判断にございますが……」 「いやよ。絶対にいや。あれのせいで、余計に具合が悪くなるの。それに──自分の血を見るのが……怖いの」 言い終える前に、涙がこぼれた。 困り果てた様子で、大臣は言った。 「では……診療の後に、また使者へ土産を頼みましょう。古今東西の──」 言葉が終わるより早く、エリザベスは緑の食器を床へ叩きつけていた。 乾いた音を立て、皿は無残に砕け散る。 「掃除の者を呼んでまいります」 大臣は足早に部屋を去った。 エリザベスは布団にくるまり、声を押し殺して泣いた。 やがて、住み込みの掃除婦がやって来る頃には、涙は止んでいた。 かすれた声で、エリザベスは問いかける。 「……ここでの暮らしは、楽しい?」 掃除婦はにこやかに頷いたが、はっきりとは答えなかった。 その日の残り、エリザベスはただ、窓の外を見続けていた。

この世には「顔が利く」という言葉があるが、アンリの場合は少し意味が違った。彼の顔は、その表情だけで百のことを語ったのだ。 彼が少しでも不機嫌な顔をすれば村人は頭を下げ、満足げに頷けば皆ほっとして小躍りした。 アンリは自分の顔に自信を持っていた。 「俺は人の心を動かす、イカした顔なんだ」 アンリが病に倒れ、最期のときが来た。 彼はこう言い残した。 「俺の死に顔を確かめてくれ。 その表情のまま埋葬してほしい」 アンリの死に顔は、驚くほど安らかだった。 村人たちはその顔にふさわしい、静かな埋葬場所を探し始めた。 だが、その評判を聞きつけた人物がいた。 その人物はアンリの安らかな死に顔をためらいなく剥ぎ取り、 自らの聖書の革張りにした。 村人たちは抗議できなかった。 相手は王だった。太陽王と呼ばれる男である。 革張りのアンリの顔は、四隅に引っ張られ、 この世に怒りを向けているように見えた。 その威圧を、王は巧みに利用した。 こうして王の絶対権力は、さらに強固なものになったという。 アンリの残りの遺体は、村人たちによって静かな森に埋葬された。顔を見ずとも、彼は村人たちに愛されていたのである。

三行小説|蟻

蟻を追う男がいた。 男は一日中地面を這っていた。 蟻は男の上を歩いていた。

三行小説|レモン

レモンを真っ二つに切った。 真っ白だった。 唐揚げに絞ったが、一滴も出なかった。

小さな不幸のスケッチ

雨に濡れた手から、イヤホンが滑り落ちた。 暴風警報。見つからないイヤホン。ついてないなあ。いつもこうだ。 思わず傘を地面に叩きつける。 傘は折れた。 俺は絶句した。 次の日。音楽なしでの通勤は暇だ。 昨日イヤホンを落としたあの場所を通る。天気は台風一過。 俺は注意深く地面に目を凝らした。風に飛ばされたかな。 よく見ると── あっ! あったあった。 イヤホンが転がっている。 手に取って確認する。間違いなく俺のだ。 すっかり上機嫌になり、その場で耳にはめて通電してみた。 すると── わっ! 思わず悲鳴が出た。イヤホンの中に水が溜まっていたらしい。細かい振動で、それが一気に押し出されたのだ。 最悪だ。 頭を振って水を抜く。 だが音は出ている。問題はなさそうだ。 ポケットティッシュで念入りに水を拭き取り、もう一度音楽を聴いてみる。 ……こんな音だったかな。 なんだか少し曇っている気もするし、気のせいのような気もする。 ふと気づく。 だいぶ時間を食っている。遅刻確実だ。 俺はイヤホンをしまい、会社へ向かった。 なんだか耳が痒い気がする。

茶庵(推敲前)

人はそれぞれの目的を持って、思索する暇もなく行き交う。 決して都会ではないのだが、人々はどこかせわしなかった。 水牛が純粋な目を正面に向けながら荷物を背負い商人に率いられて行く。 木枯らしが枯れた柳の葉を道に撒き散らす。 柳がまだ緑だった頃、私はこの辺りで美味しいと有名な茶庵で茶をいただいた。 座って茶を待っていると、壁の丸い窓からまだ少し幼い少女が洗濯物を腕に抱えて鼻歌交じりに歩いているのが見えた。 少女は私の目線に気づき少しはにかんで中国語で何か呟いた。 その数秒後にお茶が運ばれてきた。 鳶が鳴く声がした。

笑え

笑えと命令された。 嫌いな上司の派手な失敗を思い返して、笑った。 腹が引きつり、声が裏返り、痙攣し、涙が溢れる。 何時間か経つと、上司への憐れみが湧いてきた。 だが、笑わなくてはならない。 自分の大きな笑い声を手掛かりに、笑い続ける。 やがて、感情の抜け殻のような笑いも限界に近づく。 頭の中で上司が責め立てる。 「君はいつも最後までやり通さない」 そこで、上司をもう一度、頭の中で失敗させてみる。 だが上司は冷静だ。 オフィスで笑っているのは、俺一人だった。 いや──俺が笑われている。 俺が、皆から幼稚だと笑われているのだ。 それに気づいたときも、笑い声はまだ叫ばれ続けていた。 腹が裂け、金切り声を上げ、のたうち回り、血の涙が溢れる。 笑顔で。

卵三景

──卵が糸を引きながら殻から落ち、熱せられたフライパンの上で爆ぜた。黄色は固まり、白はふくらむ。香ばしい匂いが鼻先をかすめる。 ──割れた殻を空中階段のように使い、白身と黄身を分ける。濃い黄色の黄身はほとんど橙色だ。それが牛乳や生クリームと混ざると、やわらかな薄橙に落ち着く。母性が溶けたような生地を、冷やし固める。 ──水は沸騰している。湯の中で卵が、湧き上がる泡に押されてころころ転がる。尻に開けた小さな穴から白い中身が少しはみ出している。湯は減り、白い殻が水面から顔を出す。殻には細いひび。沸き立つ音も、どこか乾いてくる。やがて殻が割れ、黄色い身が外へにじみ出た。