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地球の肌

僕らは地球の声が聞きたかった。 ある人は地面に耳をつけた。ある人は岩に耳をつけた。またある人は、アスファルトの割れ目に耳をつけた。 皆、感じた。地球の「肌」は、思いのほかひんやりしていた。 もう死んでいるのかもしれなかった。 それでも耳を澄ませて聞こうとした。 もはや誰も自動車のような音の鳴るものには乗らなかった。地球に静寂が戻った。 やがて、波のような音が微かに聞こえた。 聞こえた……聞こえた? 聞こえた。 人々は静かに喜んだ。だが声には出さず、ひたすら地球に耳を当て続けた。 やがて人々は、地球の肌になった。 地面や岩肌、アスファルトの割れ目に片耳をつけたままの、人型の鉱物が遺された。 何千年も経って、鉱物の空に向いた耳の穴から水が湧き始めた。 水はそこら中から溢れ出し、地球は再び水の惑星になった。 誰もいない地球に、静かな波の音だけが響いている。

エリザベスの部屋

エリザベスは窓から外を眺めた。今日は曇りで、宮殿を出入りする人影もまばらだった。 やがてカーテンを引き、ランプに火を灯す。オレンジ色の光が、卓上の緑の食器を鈍く照らした。 それは昨日、東の使者が献上したものだった。 丸みを帯びたその皿に、エリザベスはときおり息を吹きかけ、布で丁寧に磨く。そうしていると、不思議と心が落ち着いた。 足音が近づく。誰かが部屋へ来る。 エリザベスは咄嗟にベッドへ潜り込んだ。 「お嬢様、ご気分はいかがですか」 細長い顔の大臣が、静かに部屋へ入ってきた。 「ええ、問題ないわ」 「昨日も倒れられたと聞いておりますが」 「もう良くなったの。この通り」 エリザベスは笑みを作ってみせた。 「素敵な笑顔でいらっしゃいます。……ですが、顔色が優れません」 大臣は穏やかに言葉を継ぐ。 「そろそろ医者にかかられる頃合いかと」 エリザベスの表情が曇る。 「また瀉血するの?」 「それは医師の判断にございますが……」 「いやよ。絶対にいや。あれのせいで、余計に具合が悪くなるの。それに──自分の血を見るのが……怖いの」 言い終える前に、涙がこぼれた。 困り果てた様子で、大臣は言った。 「では……診療の後に、また使者へ土産を頼みましょう。古今東西の──」 言葉が終わるより早く、エリザベスは緑の食器を床へ叩きつけていた。 乾いた音を立て、皿は無残に砕け散る。 「掃除の者を呼んでまいります」 大臣は足早に部屋を去った。 エリザベスは布団にくるまり、声を押し殺して泣いた。 やがて、住み込みの掃除婦がやって来る頃には、涙は止んでいた。 かすれた声で、エリザベスは問いかける。 「……ここでの暮らしは、楽しい?」 掃除婦はにこやかに頷いたが、はっきりとは答えなかった。 その日の残り、エリザベスはただ、窓の外を見続けていた。

この世には「顔が利く」という言葉があるが、アンリの場合は少し意味が違った。彼の顔は、その表情だけで百のことを語ったのだ。 彼が少しでも不機嫌な顔をすれば村人は頭を下げ、満足げに頷けば皆ほっとして小躍りした。 アンリは自分の顔に自信を持っていた。 「俺は人の心を動かす、イカした顔なんだ」 アンリが病に倒れ、最期のときが来た。 彼はこう言い残した。 「俺の死に顔を確かめてくれ。 その表情のまま埋葬してほしい」 アンリの死に顔は、驚くほど安らかだった。 村人たちはその顔にふさわしい、静かな埋葬場所を探し始めた。 だが、その評判を聞きつけた人物がいた。 その人物はアンリの安らかな死に顔をためらいなく剥ぎ取り、 自らの聖書の革張りにした。 村人たちは抗議できなかった。 相手は王だった。太陽王と呼ばれる男である。 革張りのアンリの顔は、四隅に引っ張られ、 この世に怒りを向けているように見えた。 その威圧を、王は巧みに利用した。 こうして王の絶対権力は、さらに強固なものになったという。 アンリの残りの遺体は、村人たちによって静かな森に埋葬された。顔を見ずとも、彼は村人たちに愛されていたのである。

三行小説|蟻

蟻を追う男がいた。 男は一日中地面を這っていた。 蟻は男の上を歩いていた。

三行小説|レモン

レモンを真っ二つに切った。 真っ白だった。 唐揚げに絞ったが、一滴も出なかった。

小さな不幸のスケッチ

雨に濡れた手から、イヤホンが滑り落ちた。 暴風警報。見つからないイヤホン。ついてないなあ。いつもこうだ。 思わず傘を地面に叩きつける。 傘は折れた。 俺は絶句した。 次の日。音楽なしでの通勤は暇だ。 昨日イヤホンを落としたあの場所を通る。天気は台風一過。 俺は注意深く地面に目を凝らした。風に飛ばされたかな。 よく見ると── あっ! あったあった。 イヤホンが転がっている。 手に取って確認する。間違いなく俺のだ。 すっかり上機嫌になり、その場で耳にはめて通電してみた。 すると── わっ! 思わず悲鳴が出た。イヤホンの中に水が溜まっていたらしい。細かい振動で、それが一気に押し出されたのだ。 最悪だ。 頭を振って水を抜く。 だが音は出ている。問題はなさそうだ。 ポケットティッシュで念入りに水を拭き取り、もう一度音楽を聴いてみる。 ……こんな音だったかな。 なんだか少し曇っている気もするし、気のせいのような気もする。 ふと気づく。 だいぶ時間を食っている。遅刻確実だ。 俺はイヤホンをしまい、会社へ向かった。 なんだか耳が痒い気がする。

茶庵(推敲前)

人はそれぞれの目的を持って、思索する暇もなく行き交う。 決して都会ではないのだが、人々はどこかせわしなかった。 水牛が純粋な目を正面に向けながら荷物を背負い商人に率いられて行く。 木枯らしが枯れた柳の葉を道に撒き散らす。 柳がまだ緑だった頃、私はこの辺りで美味しいと有名な茶庵で茶をいただいた。 座って茶を待っていると、壁の丸い窓からまだ少し幼い少女が洗濯物を腕に抱えて鼻歌交じりに歩いているのが見えた。 少女は私の目線に気づき少しはにかんで中国語で何か呟いた。 その数秒後にお茶が運ばれてきた。 鳶が鳴く声がした。

笑え

笑えと命令された。 嫌いな上司の派手な失敗を思い返して、笑った。 腹が引きつり、声が裏返り、痙攣し、涙が溢れる。 何時間か経つと、上司への憐れみが湧いてきた。 だが、笑わなくてはならない。 自分の大きな笑い声を手掛かりに、笑い続ける。 やがて、感情の抜け殻のような笑いも限界に近づく。 頭の中で上司が責め立てる。 「君はいつも最後までやり通さない」 そこで、上司をもう一度、頭の中で失敗させてみる。 だが上司は冷静だ。 オフィスで笑っているのは、俺一人だった。 いや──俺が笑われている。 俺が、皆から幼稚だと笑われているのだ。 それに気づいたときも、笑い声はまだ叫ばれ続けていた。 腹が裂け、金切り声を上げ、のたうち回り、血の涙が溢れる。 笑顔で。

卵三景

──卵が糸を引きながら殻から落ち、熱せられたフライパンの上で爆ぜた。黄色は固まり、白はふくらむ。香ばしい匂いが鼻先をかすめる。 ──割れた殻を空中階段のように使い、白身と黄身を分ける。濃い黄色の黄身はほとんど橙色だ。それが牛乳や生クリームと混ざると、やわらかな薄橙に落ち着く。母性が溶けたような生地を、冷やし固める。 ──水は沸騰している。湯の中で卵が、湧き上がる泡に押されてころころ転がる。尻に開けた小さな穴から白い中身が少しはみ出している。湯は減り、白い殻が水面から顔を出す。殻には細いひび。沸き立つ音も、どこか乾いてくる。やがて殻が割れ、黄色い身が外へにじみ出た。

眠れぬ夜

眠れぬ夜に、ふと思い出す。 飛行機雲が、視界の左斜め上へまっすぐ伸びている。 級友の声。 原っぱの斜面を転がるボール。 私は寝転び、本を読んでいた。 ページの上に、小さな蜘蛛がいる。 指で払う。 潰れて、汁がついた。 私は本を閉じ、目を閉じた。 蜘蛛の口。 私は蜘蛛の巣を観察している。 捕まった虫を、尻の糸で、ぐるぐる巻きにしていく。 白い塊になる。 蜘蛛はそれを飲み込む。 その口が、だんだん大きくなる。 大きく、大きく。 やがて私の頭を飲み込むほどに。 唾液で湿った柔らかな口が、首元に触れる。 ねちゃり…ねちゃり。 私は頭から、ゆっくり溶かされていく。 午前二時。 冷えた布団を、出たり入ったりしている私。 壁を見る。 黒い点が動いている。 目を凝らす。 黒い点が、八つ。 この部屋は、蜘蛛の巣の中だ。 大きな蜘蛛の顔が、 眠れない私を、見ている。

ブルーマウンテン

朝から一分間に四十個のペースで実をもいでいる。 コーヒーの実を木からもぐと、独特のスパイシーな匂いが立つ。その匂いが空腹を刺激する。 今朝は朝食を抜いてきた。寝坊したのだ。昨日のことが嬉しくて、なかなか眠れなかった。エリザの声が、まだ耳に残っている。そのことを思うと、作業にも力が入る。 熟れ過ぎて落ちた実が、サンダルの下でザクザクと割れる。 これなら──四十五個ペースもいけるかもしれない。 額から垂れた汗を舐める。 一列目の木の実をすべてもぎ終え、二列目に取りかかったとき── 「あっ……」 木の陰に、見覚えのある青いサロペットが見えた。ホセチェリーナだ。隠れようとしたが、もう遅かった。 「あんた……」 彼女は褐色の顔に青筋を立てている。 「エリザは、豆取り屋になんてすぐ飽きるわ!」 「彼女はそんな言い方しない」 「それにあの子……高飛車よ!」 「所詮、金持ちのお嬢様なのよ!私たちが豆を摘んでる間にあの子はノートを開いてる」 「なにがいいたいの?」 「…机の上にはコーヒーが冷めていて、宿題が終わればそれをキッチンに流すの。深く味わう気なんて更々ないの。あなたも…」 「で……」 「作業に戻っていい?」 ホセチェリーナは、潰れたコーヒーの実を僕に投げつけて去っていった。 空の向こうの霞んだ青い山々が、農園を見下ろしていた。

誰もいない海

そよ風がレースのカーテンを揺らす。窓の外には絶景が広がっている。 白い砂浜に青い海、その上にまた青い空。 カモメが太陽を背に受けて海に影を落としている。 赤や黄のパラソルがまばらに砂浜に刺さっている。だが人はいない。この世界には人はいない。観察者である僕自身もそこにはいないのである。 僕は東京のとある場所のマンションにいる。 部屋の電気はついてない。薄暗い部屋。東京特有の曇り空からわずかに差す陽の光が僕の部屋にまで届いている。 あの日あの人からの手紙を読んだ。抑揚のない文章、しかし、ときどきわざとらしい強い言葉が使われていた。なんだかこの部屋の外の室外機の音のようだった。 そのあと僕は抗鬱薬を飲んだ。それから3日間僕はベッドから動けていない。 そういえば、手紙はザラザラとした手触りだった。もしかするとあの手紙には麻薬のようなものが付着していて、それを触った手で抗鬱薬を飲んで……こうなってしまったのだろうか。 海が見える。誰もいない海。そういえば手紙の消印がなぜか8月だった。

茶庵

人はそれぞれの目的を持って、思索する暇もなく行き交う。 水牛が目をまっすぐ正面に向けながら荷物を背負い商人に率いられて行く。 木枯らしが枯れた柳の葉を道に撒き散らす。 柳がまだ緑だった頃、私はこの柳の木陰にある茶庵で茶をいただいた。 座って茶を待っていると、壁の丸い窓から幼い少女が洗濯物を腕に抱えて鼻歌交じりに歩いているのが見えた。 少女は私の目線に気づき、少しはにかんで中国語で何か呟いた。 その後、茶が運ばれてきた。 鳶が鳴く声がした。

ピンク

処方箋薬局でティッシュを貰った。 箱と言っていいほど厚みのあるティッシュだった。 鼻を噛んだとき気づいた。 五枚ごとに一枚、ピンク色の紙が折り込まれている。 私はその紙だけ使わずに取っておいた。 何日か経つと、机の引き出しには十数枚のピンクティッシュが溜まっていた。 正直、どうでもいい習慣だった。 だが、なぜかやめられなかった。 薬局に通うたびに箱を貰うので、ピンクは増え続けた。 秋には引き出しがつっかえそうなほどになっていた。 ある日、作業中に視線を感じた。 見上げると、天井をとんでもなく大きな蜘蛛が這っていた。 私は凍りつき、廊下から殺虫剤を取ってきた。 部屋が白くなるほど噴射する。 蜘蛛はよじれながら床に落ち、机の下へよろよろ逃げた。 私は箒で叩いた。何度も。 戦いは終わった。 脚を広げて動かない蜘蛛に、私はピンクティッシュを被せた。 一枚、また一枚と重ねた。 ここまでの大きさに育った魂への餞別だったのか。 それとも、どうでもいい習慣への終止符だったのか。 ピンクの塊を、ゴミ箱の奥へ押し込んだ。

クラヴィッツ

最低限の家具家電、壁際にはいくつかのダンボール。 窓にはカーテンも何もなく、真ん丸い月が丸見えだった。 パーカーを羽織って買い出しに出た。 グーグルマップを頼りにファミリーマートに来た。 店の前では大学生が群れて、たばこを吸っていた。 紙皿、紙コップ、割り箸。 それから適当に胃に溜まりそうな食品と、ワインボトル。 家に帰ると、階下が騒がしかった。 何か洋楽っぽい、特徴的なリズムが床を振動させていた。 その床に、ワインを注いだ紙コップを置いた。 ぺらぺらのお絞りで手を拭き、おにぎりを食べ始める。 パッケージの野球選手が笑っていた。 水の代わりにワインを注ぐから、酔いが早い。 階下の音楽は鳴り止まない。 これはレニー・クラヴィッツかもしれない、と思った。 食べ終えると、私は服を脱いだ。 下着もすべて脱いで、素っ裸になる。 満月が白く見下ろしていた。 床に大の字になる。 それから、ふつふつと笑いが込み上げてきた。 指先がリズムに合わせて床を叩く。 リズムに合わせてシャウトしてみる。 笑いが腹の底から突き上げてきて、何もない部屋にこだまする。 すると階下の音楽は止まった。 私の笑いはだんだん小さくなって止まる。 「チッ、なんだよ……」

曇りのち曇り

ソウタは買ってもらったばかりのスマホをいじっている。 ポテトチップスの油が指に光っていた。 テレビではミヤネ屋が天気を伝えている。 今週はずっと曇りらしい。 風が強く、施錠したはずのドアがガタガタ鳴った。 玄関へ続く廊下は暗い。 ソウタは学校では成績がいい。 テストで五回続けて百点を取った。そのご褒美がこのスマホだ。 なのに、設定ひとつ終わらない。 画面が油で白く曇る。 脚にこすりつけ、ゴシゴシと拭う。 本当は、ずっと尿意を我慢している。 トイレが怖い。 またドアが鳴った。 一瞬、お母さんかと思う。 違う。風だ。 涙が滲む。 声にならない声を漏らしながらテレビの音量を上げ、廊下の電気をつける。 限界だった。 トイレへ走り、踏ん張り、手も洗わず部屋へ戻る。 スマホが床に落ちている。 テレビでは「世界情勢」とテロップが出ていた。 ソウタはSwitch2の電源を入れる。 リポーターの顔がポケモンに変わる。 日が暮れる。 部屋の明るい部分と暗い部分の境目が濃くなる。 ソウタの涙は、目の縁で白く乾いていた。

野菜生活

今日は酒でも飲みたい気分だった。 だが肝臓を悪くして、もうアルコールは飲めない。 冷蔵庫には、それを見越したようにジュースが冷えている。 テレビではアニメのキャラクターが目を剥いて騒いでいた。 このテレビも悩みの種だ。買って一ヶ月、動画を見ていると勝手に電源が落ちる。メーカーに電話するのが億劫で、そのままにしている。 リモコンを取って、プライムビデオに切り替えた。 「動物園の世界」。無難そうな番組だ。 再生ボタンを押し、キッチンへ向かう。 キンキンに冷えたジョッキに野菜生活を注ぎ、氷を放り込む。 戻ると、番組はもう始まっていた。 画面にはビーバーがいた。 手足を広げて水に浮かんでいる。可愛い。 目の保養にはなったが、関心はすぐにスマホへ移った。 紙皿を買わなければならなかった。 紙皿には驚くほど種類がある。 レビューを読み、似た商品を行き来し、どれも決め手に欠けた。 カラン、と音がした。 ジョッキの中で氷が割れたのだ。 慌てて野菜生活を一気に飲む。 薄まったそれは、酸味だけが浮き立って不味かった。 二杯目を注ぎに行く。 戻ると、テレビには象が映っていた。 ギャオンと鳴く。音量を少し下げ、ソファに寝転がる。 紙皿を選ぶだけなのに、気分は重かった。 この時間の使い方、この優柔不断さ、昼間の出来事。 全部が一本の線でつながっている気がして、苛立った。 消去法で残った三種類を、すべてカートに入れた。 決済ボタンを押し、深く息を吐く。 そのとき、テレビの電源はすでに落ちていた。 ジョッキの氷も、いつの間にか溶けていた。

琵琶湖live

「波音、静かで上品やねぇ」「海とはまた違うね」 撮影用マイクが拾った琵琶湖の波音は、二十四時間、どこかに向けて流れている。 同時接続十四人。そのうちの一人が凛子、また一人が咲子だった。 「京都におったら、滋賀って軽んじがちやけど、BGMにしたらええわ」 「私はゲーム音楽のほうが好き。どう森みたいなやつ」 咲子はまだ関西に来て日が浅い。 言い切る声が、凛子の間延びした相づちと画面越しに重なり合う。 凛子の部屋にベランダはない。 室内干しの洗濯物の隙間から、夕日が滲んでいる。 「琵琶湖も暮れてきたなぁ」 「こっちより、ちょっと遅いね」 源氏パイを割り、缶チューハイで乾杯する。 会話は少ない。少ないことが、ちょうどいい。 「その濡れた洗濯物、波音に合うね」 「それ、生乾きってことちゃう?」 「ちがうよー」 笑う。 夕日が離れた二人の頬を同じ色にする。 「……なぁ」 凛子の声だけ、温度が落ちた。 咲子が菓子を噛み切り、飲み込むまで、続きはなかった。 「なに?」 「私な、滋賀の人と付き合うねん」 「……へ?」 凛子はもう一度言う。 「滋賀の人やねん」 部屋には、返事の代わりに、 琵琶湖の静かな波音だけが残った。

赤頭巾少女

その少女は赤い頭巾を被っていた。 祖母の家は村から山を二つ越え、丸一日かかる場所にある。 五歳の少女を一人で行かせるにはあまりにも心もとない距離だった。 そこで祖母は番犬として一匹の狼を買い与えた。 名前はチャロ。 茶色の毛並みをした、賢く、人の言葉を理解する優しい狼だった。 少女は祖母の病気の薬を届けるため、今日も村を発ち、祖母の家へ向かって山道を登っていく。 * チャロが言った。 「しかしだね。病気だからって、五歳の少女を定期的に山越えさせるなんて、ふざけた話じゃないかい?」 「おばあさまの命令は絶対よ」 「このまま弱っても君が世話をする羽目になるし、治って元気になったらなったで、あの高圧的な態度でこき使われるだけだ」 「……じゃあ、どうすればいいの?」 チャロは答えず、視線を森の奥へ向けた。 そこには、見るからに毒々しい色をしたきのこが群れていた。 「ちょっと、考えがある」 * 祖母の目には、赤い頭巾が被せられていた。 「お使いのうえに、手料理まで振る舞ってくれるなんて。今日は何を作ってくれるんだい?」 「秘密よ、秘密」 「お嬢様は料理の早熟として、村でも評判なんですよ」 甘辛い匂いが小屋の中に満ちていく。 たしかに、とても“美味しそう”だった。 チャロはひそひそ声で言った。 「うまくいくさ」 少女は何も言えず、額から汗を一筋流した。 大量のきのこのソテーが、テーブルの中央に置かれる。 祖母は頭巾を目から外し、鼻をひくつかせた。 「やっぱりね。この匂い、きのこのソテーだと思ってたよ」 「孫の手料理が一番美味しいんだからねえ」 「おばあさま、先に召し上がって」 「熱々がいいですよ」 チャロも後押しする。 祖母は一言、 「じゃあ」 と言って、ひと口頬張った。 すぐに笑みがこぼれる。 「あら、美味しい」 それからは凄まじかった。 ばくばくと食べ進め、あっという間に皿は空になった。 呆気に取られ、少女とチャロは顔を見合わせる。 (……成功、したのか?) 口元を拭った祖母が、ゆっくりと口を開いた。 「本当はね、このきのこ、毒きのこなんだよ」 凍りつく空気。 「でも私はね、日頃の薬のおかげで、この毒に耐性ができててさ」 「だから、あんたたちの分まで平らげたの」 少女とチャロの顔から血の気が引いた。 どうやら、故意だとは気づいていないらしい。 「でも、お腹すいたろ?」 祖母...

じいちゃんのケーキ

じいちゃんはパティシエだった。 若い頃、何かの大会で準優勝したことがあるらしい。 「おれのケーキにゃ魂がこもっとる」 酒も入っていないのに、そう言って胸を張っていた。 だが最近のじいちゃんは、別人みたいだった。 厨房に立つ背中は丸く、声も掠れている。 「おれのケーキなんて、食えたもんじゃねえかもな」 おどけて笑うが、顔色はホイップクリームみたいに白い。 昔は褐色で、腕まくり一つでブイブイ言わせていたのに。 家族は小声で話していた。 このままじゃ、長くないかもしれない、と。 そんなある日、じいちゃんが言った。 「おれぁ、最後に人生をかけたケーキを作る」 掠れた声だったが、目だけは若い頃に戻っていた。 近所の子どもに面と向かって言われたらしい。 「ここのケーキ、まずい」 悪気はない。 だがそれは、死んだばあちゃんの名を冠したケーキだった。 じいちゃんにとっては、致命傷だった。 正直、家族は期待していなかった。 もう年を取りすぎていた。 それから半年。 じいちゃんは厨房で暮らした。 甘い匂いを漂わせたり、焦げ臭かったり。 眠るのも厨房だった。 思いついた瞬間に、すぐ手を動かせるように。 やがて、家に戻らなくなった。 心配した家族は、最悪の事態を覚悟して厨房へ向かった。 扉には鍵。父ちゃんが蹴り破る。 中は、まるで誕生日会のあとみたいだった。 ホイップの跡。散らばるヘラと包丁。 そして作業台の中央に、ホールケーキ。 その中央に、じいちゃんの顔が、きれいにプリントされていた。 満面の笑みだ。 吹き出し型のチョコレートに、こう書いてある。 「さいこうけっさく! おれだよ」 蝋燭はなかった。 じいちゃんも、いなかった。 代わりに、衣服だけが脱ぎ散らかされていた。 「駄目だ……これぁ警察もんだ」 父ちゃんの声が震える。 そのときだった。 下の子が“じいちゃんケーキ”をむしって、口に入れていた。 「変なもん食べるんじゃない!」 叱った瞬間、 下の子がこちらを振り向いた。 そして、家族を叱り返した。 「おれの魂のケーキを、馬鹿にするか!」